私は、基本的には片付いている状態を好むので、普段から不要なものは処分していく質なのですが、たまに「えい」と勢いを必要とするものがあります。
それは、
過去、勉強した時に書いたノート。
講座、セミナー、、ノウハウを知識として入れる時は、せっせとノートを書きたい方で、紙を溜め込むタイプです。
皆さんはいかがでしょうか?
過去自分がお金と時間と情熱をかけて得た知識をまとめたノート、簡単には捨てられない。そんな思いがあって、何年も前の〇〇講座のノートを捨てずに取ってある。なんてことはないでしょうか?
ー
でももしかしたら、そのノートを最後に見返したときに漠然とつけたイメージ「このノートは必要である」は、今の今、見返してみると、そんなに重要ではない、となるかもしれません。
それを先日体験した私のエピソードを今日は書きたいと思います。
ー
私はあるセミナーにとても熱心に通っていた時期がありました。
テキストのないセミナーだったので、’講師の言っていることを書き留めること’がノートのメインでした。そのセミナーの自分流のテキストを作っているような感覚でした。他の受講生からは素晴らしいノートだと賞賛され写メされるくらいのクオリティでしたので、自分でも鼻が高かった記憶があります。
このノートたちを久しぶりに引っ張りだし、ノスタルジックになりながらも眺めていると、ある感覚に気づきました。
【このノートに書かれている世界が、自分の世界の枠になっている】
この書き手(過去の私)は、ノートに書かれていることより外側には出ないようにしているな。
と客観的に感じたのです。
その時の自分がピンと来た講師の言葉が集められてあるだけで、それを受けて自分がどんなふうなことを考えたかが、ほとんど記されていないというのも要因だと思います。
当時、こういう考え方をすると世界観が広がる といったつもりで集めていた言葉たちが、いつの間にか 世界の限界を作るノートになっていたことに気づきました。
(こればかりは個人の解釈ですし、講師がNGとか、私が偉いとか一切ないですよ)
ー
本当に大事に書いた思い出のあるこのノートを先日、感謝と共にすべて焼き捨てました。
このことがどう作用するかはわかりませんが、「知」の空きスペースができたような感覚はあります。
実際、新しい学びも始めて、今はエキサイティングな日々です。
これからのノートの取り方は、
自分の世界の見え方が広がりそうだ と思った言葉に出会ったときは、その言葉をメモした横に、自分がそれを受けてどう思ったかを記そうと決めています。
その場で時間が取れない時は、家に帰ってからでも寝る前でも。
もしできなくてもそれはそれでOK。くらいのゆるさも持ち合わせながら。
そんなペースが私流だなと今は思っています。
ー
もし、ご自分のお家の断捨離で、ノート類が捨てられずお困りの方は、
それを受け取った時の自分を、「そんな感覚で受け取ったのよね〜」と、客観的に認識する(引き離す)ようにしてみると、 思ってもみない発見があると思います。
その瞬間、あなたの世界は広がっているのですから。